日本語は曖昧な言葉? by 岡山洋一

NECO塾を主宰される岡山洋一さんが個人通信第5号(2012-3-5)で以下のような興味深い日本語論を展開されている。

 

よく、日本語は曖昧な言語だと言われます。私は別の意見を持っていて、日本語が曖
昧なのではなく、日本語を使っている人が曖昧なのだと思っています。使っている人
が曖昧なので、言葉が曖昧になります。言葉を曖昧に使わない外国人が日本語を使う
と、曖昧にはなりません。日本人が英語を使うと、曖昧な英語表現になります。
以前まだディベートが日本語で行われていなかった頃、日本語は曖昧なので、日本語
ではディベートはできないと言っている人がいました。ずいぶん違和感を持ったもの
です。今ではこれは、間違いだとわかります。なぜなら、日本語でも、あちこちで、
ディベートは行われているからです。言語が曖昧と言うことはありません。使う人が
曖昧なだけなのです。日本語は曖昧な言語ではありません。

 

これは私にとっては今まであまり聞いたことのないユニークな視点です。

 

私は日本語=fuzzy(曖昧)の典型、と考えていました。

たとえば、主語を使わない(「私はうなぎだ」など)、相対的自己、Noと言えない(かつて日本人との取引の注意点として『ノーという意味の19の表現方法』という書籍もありました)等々。

 

おそらくファジーな表現をしようとするなら、日本語は大変便利な言葉ではないでしょうか。

 

もちろん日本語をどの言語と比較するかにもよります。

日本では英語などのアングロサクソン系の言語と比較されることが多いですね。

 

しかし、欧米の言語でも、たとえばスウェーデン語にはNja (ニャー、Ja=yes でも Nej=noでもない、さーて)といった曖昧、玉虫色の表現があります。

 

英語系のコミュニケーションでは会話の間の〈沈黙〉はイライラの原因です。静けさを破るために話をする欧米人もいます。しかし、スウェーデン人にとっては、〈沈黙〉はイライラの要因ではなく、日本人と同じように、次の話題を考える時間でもあります。

 

岡山さんは、日本語自体が本質的に曖昧なのではなく、日本語を使う人次第だとの主張です。具体的なディベートの事例などを教わりたいものです。

 

言葉は文化の重要な一部だと思います。日本人でも日本語文化の壁を乗り越えて、グローバルに分かってもらえる明解な表現が出来るのだとすれば、それは画期的な可能性を示唆していますね。