29日の研究会〈欧州における日本文化の発信ー大学生が出来ること〉に関連して
栗田勇著 『日本文化のキーワードー七つのやまと言葉』(詳伝社新書 2010)
を読みました。以下の七つのやまと言葉で日本人の心を読みといています。
大変興味深く、一気に読んでしまいました。
一、〈ありがとう〉ということ
二、〈遊び〉ということ
三、〈匂い〉ということ
四、〈間(ま)〉ということ
五、〈道〉ということ
六、〈わび、さび〉ということ
七、〈あわれ〉ということ
まえがき pp 3-4
日本の国際化は,今や第三段階。
第一段階=外国のことをもっと知ろう、欧米に追いつき追い越せ。
第二段階=日本のことを、もっとはっきり欧米の世界に知らせよう。
第三段階=境界なき世界の前であらためて日本とは何かを問い直さねばならなくなった。
著者の手法は二千年を超えて用いられてきた〈やまと言葉〉
一、〈ありがとう〉ということ
ありがとうの語源は〈有り難し〉。柳田国男は本来は神を讃える言葉だった、と述べている。滅多にないこと、この世にあるとは思われないほど素晴らしいこと、神を讃えるところから起こって、やがて神から与えられる恩寵に対して「有り難い」というようになったのだという。 p34
人から物をもらったり、よいことをしてもらったとき、〈ありがとう〉と言うのは、じつは、相手の人がありがたく偉いのではない。(中略)そういう恵みをもらたしてくれた第三者の神仏のお計らいに対して、もっとゆるやかにいうなら、そういう宿命のなりゆきが〈ありがたい〉のである。
二、〈遊び〉ということ
西洋でプレイ、遊びというと、まず個人として得られる肉体の運動を意味する。個人が刺激や快楽を得て、自分の身体を充実させることこそが、遊びである。
日本人の、自分を抜け出す、自分を捨ててしまうところに遊びがあるという考え方は、やはり西洋の個人主義的な考え方とは、発想のルーツからして違う。 p54
遊びには、行為するという意味と、行動を起こさない、何もしないという二面性がある。
結論をいえば、やはり現実を二重に見ているのではないか。pp 60-61
三、〈匂い〉ということ
日本では、〈匂い〉の意味がはなはだ広い。
広辞苑にあたってみると、第一の意味としては、
〈赤などのあざやかな色が美しく映えること〉
第二の意味として、
〈はなやかなこと、つやつやしいこと〉
第三に、ようやく〈香り〉という意味が出て来る。 pp72-73
日本人は、匂いを身につけて外に向って発散し、アピールすることをしないが、衣服や祭儀などという空間全体を匂いで充たし、自分もそのうちに浸り、また他の人をも、ともにその雰囲気のうちに誘いこむ、個人を超えたものと一体化することを好んだ。 p75
四、〈間(ま)〉ということ
なぜ、日本では弓を使う楽器が定着しなかったのか p90
日本画に見る「余白」の意味 p93
座敷という空間の不思議 pp95-98
日本の「間」、「座敷」というのは、もともと何も置かれていない。お客が来てはじめて座布団が出る。ついで食事のお膳も出て来る。そして会席が終わると、一切すべてが消えてなくなる。いわば何もないところに一つのドラマとして、空間が演出される。時によって空が生きる。
五、〈道〉ということ
「道」とは、突き詰めたところ、任せること、天のなりゆきに任せることである。それが日本では、荘子のすすめた遊行、遊ぶという面が強くなってくる。 p 120
たんに気を散らして、気まぐれにぶらぶらするのではなく、もっと激しい、自由に集中した姿が本当の「遊び」であり、その集中して我を忘れたときには、我を超えた何かのなかに踏み込んでいるのではないか。 p 124
今日私たちが、たとえば書を書くことに精を出すとき、むつかしいことは考えないとしても、その楽しみの奥には、(中略)無念無想の充実感を味わう瞬間があるのではないだろうか。 p 137
六、〈わび、さび〉ということ
日本文化にみる、「引き算の美学」
日本の美学には、ひとつの大きな特徴がある。人工的な才気ばしった不純な添加物を削り取り、眼前にあるものから、どんどん引き算をしてゆく。そうすると、最後に裸の真実の姿が浮かび上がってくる。 p 143
花を待つより、凍った雪にこそ生命の命を感得する、そこにこそ「さび」の真の風景があり、その「さび」に生きるのが「わび」などだと利休はいっている。 (中略) 「わび、さび」にはこのように極端にまで凝縮された生命力が内包されている。 p 174
七、〈あわれ〉ということ
あわれという感動は、個人のコントロールをはみ出し、自分では押さえきれない個人を超えた感動に人が動かされている。 p 179
「あわれ」には賛嘆や喜び、嬉しい、楽しいなどという感情を表すのと、哀惜や悲しみを表すという二つの使われ方がある。 p 180
「あわれ」は、たんに人と人、また個人の感情の現れだけではなく、人間と自然の関係、さらには大自然の仕組み、宿命について、それを超えた神や仏といったある絶対的で宗教的な対象を前にしたときの、声が発せられる寸前の感動、これらすべてに通じる気分を「あわれ」と言っている。 p 188